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記者会見で怒った大臣、じゃああんたはどうなの?っていうことについて [間接的に考える]

記者会見で怒った大臣、じゃああんたはどうなの?っていうことについて

その昔、フジテレビの深夜枠が華やかだったころの話を書きます。
式守錦太夫です、こんにちは。
往時はいろいろな意味で緩やかな時代でした。

「ディベート」という番組がありました。
一つの意見が割れるような事象に関して、それを賛成と反対をくじ引きで決めて、
自分の主張とは別に、そのあてがわれた意見に対して、自分の主張を展開する。
いわば、議論を闘う「ゲーム」としての番組です。
その番組の予選に、なぜか式守が呼ばれまして、大学受験が間もないころ、
番組に出場したりした思い出があります。
(めでたく本放送ではエッセンスくらいしか流れませんでしたが)

極端な意見に対して、賛否をくじ引きで決めて、論理を展開する。
例えば、殺人犯をみんな、死刑にするべきだというお題目が出たら、
賛成のくじを引いたら、なにがなんでも死刑にするべく、論理を展開するし、
逆に反対のくじを引いたら、その逆の展開をするのです。
最終的に、観客がどちらの意見に対して論理的だとする結論が出たら、
勝利するというゲームで、
自分の意見とは別に、自分が置かれた立場にどう展開するかを冷静に対応したかというものでした。

ディベートというゲームの中では、冷静さを欠いたら、それはただちに負けに繋がります。
仮に怒ったり、相手を罵ったら、それは最大の減点となりました。
あくまで自分の意見とは別に、論争をゲームにしたものでした。
だから、相手を怒らせて、感情的に持ち込むことが一つの作戦であり、
怒らせた方が勝ちともいえる競技でした。

当時でも、意見が百出するような事象。
例えば、殺人という罪を犯した者に対して、死刑をもって対するべきとか、
戦争を解決する手段として、原子力爆弾を投下するとか。
いい、悪いではなく、あえて論争を挑んで、
論理を整然と並べて相手を論破するかということに主眼を置きます。
ゲームは、最初の「立論」で、自分の意見を提起し、
「第一反駁、第二反駁」を含めて、二回の意見で相手の矛盾を述べて、
最終的に「結論」では、改めて破たんした相手の意見を攻撃してはならないという、
論争を仕掛ける上でのルールが課せられます。
そのいずれも、数分の持ち時間で論理を組み立てなければなりません。

例えば、私がきわめてヒューマニズムに富んだ人間でも、
くじ引きでその逆の意見を担当するなら、
あえてことさら、相手の意見の矛盾点をつき、
あなた、その展開は矛盾していませんか?ということに注力を置きます。
あくまでゲームなので、自分の主張とは別のものでした。

だからでしょうか、さまざまな事象に対して、
ことさら、自分の思う主張とは別のものに対して、
あえて感情的にならず、どの意見が正しい(と思えるのか)を、
見定めることができるようになった気がしています。

昨日、震災復興大臣が、フリーランスと思われる記者の質問に激高して、
会見を打ち切り、退出を求め、ただちに発言を訂正するという問題が発生しました。
20170405復興大臣.jpg
ディベートと、信念を持って質問することには、大きな齟齬があることを承知の上で、
公的な場で激高した方が、基本的には負けです。
あえてそういう論争を挑んでくる相手に対して、多少の肩すかし的な「いなし」を持って、
対峙できなければ、欧米では「上に立つべき人間ではない」というレッテルを張られます。
ケンカをしてはいけないというのではなく、ケンカの仕方を間違えてはいけないという意味です。
欧米では、実に上手に、相手をギャフンと言わせるケンカをします。

人間は相手を不可逆的に攻撃しなくても、
論理的に論破するだけの知識を持った、特異な生物です。
だから、論理で対峙するものにあっては、
こちらも同じ論理で対応することが求められます。
特異な立場を用いて、意見表明の場を奪ったり、
物理的に相手の意見を抹殺したりしなくても、
冷静沈着に、自分の論理を展開することが求められます。
仮に、相手が大音声で主張したとしても、
粛々と、憲法上の人権に伴って論理を展開すれば、
法治国家として、必ず正義は勝つと教えられてきました。
そのことは、いまだに間違っていないことだと思っています。

昨日の記者会見は、そのどちらも見苦しいものでした。
激高したなんとか大臣は、やはりケンカをする相手を間違っていますし、
論争を挑んだ質問者は、ケンカを吹っ掛けようとしていました。
あの場がああいうことになってもならなくても、
震災復興の現場で、一番つらい思いをしている人は、
どうあっても厳しいおもいをしています。

私がいま思うこととしては、ディベートという番組で養われたことは、
自分の意見を通すためには、相手の主張をどこまで聞き入れ、
譲歩を導き出すことなのかなと思いました。
そして、その譲歩を導き出す過程で、オーディエンスを共感させ、
世論を形成して行くことが重要だと。
やみくもに、自分の意見が正論だと主張しても、聞き入れられなければ終わりだと思ったのです。
これは、世論に迎合する「ポピュリズム」とは違って、
より実践的な「主張を具現化する」ための方策だと思っています。

子育ての過程で、さまざまな「排除の理論」によって、心が折れた人の話を聞きます。
それはたしかに、なんとかしなければいけない事象です。
でも、世間では子育てが終わった、あるいは無理解な人もいることも事実です。
そこに「私は今、子育て真っ最中です!」と声高に叫んでも、
ある種の「反対するための反対」があるでしょう。
大変残念ながら。

では、反対する人の主張を一つ一つ汲み取って、
それに対して一つ一つ「反駁」していくことを、果たして行ってきたのでしょうか?
もしかしたら、その過程において、お互いの理解度を増すことになったとしたら、
相容れないお互いの心情が、一歩でも近づくなら、
それは素晴らしい「譲歩」になるのではないでしょうか。
叩き潰すためのケンカをするのではない、
いい意味での「忖度(そんたく)」をしたとしたら、また違うのかな。

最近起きる、さまざまなな論争的なものをみると、
ケンカの仕方がもっと上手だったとしたら、
この世の中、もっと面白いことになりそうだなと思ったのでした。

といいつつ、私のふところの狭さで、
とある人に不可逆的な怒りを買ってしまい、そのために、
ずっとお返しできない貴重な品々をいまだ抱えている、
この申し訳なさをいまだ心の奥底に抱えているのも事実。
なんとか解消したいのですが、どうにも解消できません。
やっぱり私も、ケンカをするのがヘタな性質なのかもです。



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